函館の魅力(3)函館山の旧日本軍要塞跡地

冒険

 ラム肉食べ太郎です。気付けば函館の記事3本目です。

 一応、「函館の魅力(2)函館山の旧日本軍要塞跡地」の続きとなりますが、今回こそ函館山の旧日本軍要塞跡地について本題に入ります。

 今回の旅の始まりは、函館の南東端にある立待岬(たちまちみさき)です。

 函館市電(路面電車)の終着駅のひとつである谷地頭駅から立待岬までは歩き続けること15分。途中には「函館の魅力(1)路線から見た函館」で紹介した谷地頭温泉があります。

 谷地頭温泉を抜け、住三吉神社を通り過ぎて街並みが途切れ始めた頃から、長い長い登り坂が始まります。

 函館には坂道が多く、高台の景色からは決まって絶景です。津軽海峡を見渡せるからでしょうか。ここには墓地が続いています。石川 啄木(いしかわ たくぼく)一族の墓です。

 ちなみに石川 啄木は…ああ、語りたい。けど、今回は旧日本軍要塞跡地について書き終えなければならないので割愛します。一文で紹介すると、1912年に26歳の若さで亡くなった文豪です。

 坂を登り切ると、遮るものは何もなく、断崖絶壁の先に津軽海峡が広がっています。

立待岬まで上がり続ける津軽海峡の絶景は、石川啄木一族と多くの先人達の頭に遮られている
立待岬の由来は「待ち合わせ場所」ではなく、アイヌ民族が魚を獲るために待ち伏せする場所であったことに因んでいるとか
奥に見えるのは本州…ではなく陸続きの北海道である

 実はこの立待岬ですが、函館要塞の一部として立ち入りが禁止されていた場所です。

 函館要塞についておさらいしましょう。

 1898年〜1902年を中心に、函館山全体は旧日本軍の要塞へと変貌を遂げました。日露戦争が迫っていたのです。函館要塞の目的は津軽海峡の防衛でした。

 函館要塞完成から程なくして、1904年2月10日に日露相互に宣戦布告し、朝鮮支配をめぐる日露戦争が勃発しましたが、1905年9月5日の日露講和条約の調印をもって終戦を迎えるまで函館要塞の出番は一度もありませんでした。

 その後、第一次世界大戦などを経て不穏な時代が続きましたが、函館要塞の出番はずっとありませんでした。

1941年12月8日、日本軍によるハワイの真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争が勃発しました。終戦間近の1945年7月14・15日、遂に戦火は函館まで及び、本州と繋がる青函連絡線の基地を持つ函館市は、アメリカ海軍機動部隊による空襲攻撃を受け、大きな被害を被りました。

函館要塞の出番です。旧式の要塞施設は役に立たず、戦果は戦闘機一機の撃墜のみでした

そして、1945年8月14日のポツダム宣言を受諾し終戦を迎えました。

 1941年に始まった太平洋戦争ですが、1939年にドイツがポーランドに侵攻して始まった第二次世界大戦の枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)のうち、最後まで戦争を続けていたのが日本であったため、太平洋戦争の終戦は、すなわち第二次世界大戦の終戦となったのです。

 何にせよ、函館要塞は1899年に要塞地帯法の制定により、一般人の入山、測量、撮影が禁止されていましたが、敗戦後の1846年10月に47年ぶりに一般市民に開放されました。

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 では、この記事を通して函館山を登って行きたいと思います。

 函館山の南東端にある「七曲り入り口」から入山しました。

 函館山のマップはこちら  函館山ロープウェイ:https://334.co.jp/hiking/

七曲り入り口。前日の雨で足元がぬかるんでいる(2016年7月3日)

 990mの七曲りコースを登って行きます。時々木陰から見える景色が素晴らしいです。

木陰から見える街並み
方向が変われば見える景色も変わる

 七曲りコースを抜けると地蔵山コースが始まります。

 途中に小道があったので逸れてみましたが、通信設備のようなものがありました。関係者が使う道だったようです。

脇道の先には通信設備のような建造物があった
お地蔵さんがいました。ここ以外にも至る所に…ここにも歴史がありそうです。

 間も無く千畳敷要塞要塞跡地に到着しますが、写真の枚数と時間の関係で、「函館の魅力(4)函館山の旧日本軍要塞跡地」へと続きます。お付き合い下さい。

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