旧北炭幌内変電所

冒険

 夕張市より北西方面にある三笠市。市街地を車で走らせていると、唐突に砂利道が現れます。

 1872年(明治12年)から1989年(平成元年)まで操業していた幌内炭鉱跡地への入口です。

 ラム肉食べ太郎一行は、陽が傾き始めた雨上がりの夏(2019年7月27日)、北海道の発展の象徴のようなこの場所を訪れました。

 117年にも及ぶ幌内炭鉱の歴史には、採炭の能率化への絶え間ない発展が刻まれています。そこで重要な役割を果たしたのが電力です。

 1898年(明治31年)に幌内滝の沢発電所からの送電により、最初の電力利用が始まりました。1914年(大正3年)には遂に炭鉱施設に電灯が点るようになり、1919年(大正8年)、1924年(大正13年)での送電線の設置による電力量の増強に伴い、炭鉱の電力化が進められ、採炭の能率が押し上げられたとのことです。

 旧北炭幌内変電所です。夕張清水沢火力発電所の電力を、周辺炭鉱施設に供給するために大正中期以降に運用開始したとのことです。

発電所から送電線を通して送られて来た電気は、変電所を通じて使いやすく変圧される。
大正中期の外レンガ貼りコンクリート造の建屋。中には配電盤室、開閉器室、事務室等があった。
近代化産業遺産に指定されているこの建屋には、無許可では立ち入ることはできない。
入口の脇には大量の碍子の残骸が集められている。碍子(ガイシ)は陶器製であり、電線とその支持物の間を絶縁するために用いられる。
ここから設備の状態を確認することもあったのだろうか。
絡み付いたツタによって、鉄構がひしゃげている。自然の力は強大である。
写真と反対側の2面に巨大なラジエータが付いた変圧器。送電線から送られて来た高電圧の電気を、使いやすい電圧に変換する機器である。
遮断器。電流・電圧共に、直ちに遮断することができる。事故時や点検時にブレーカーのような役割を果たす。
断路器。分かりにくいが、3相の電路に対して、それぞれ真ん中のT字状の、電路の付いた碍子が回転することによって、電路の開閉を行う。電流が流れている状態では使用できないため、主に点検時の安全確保のために用いられる。

 変電所の横には幌内神社があります。苔による侵食の激しい石階段を登ると、赤黒い鳥居が目に入ります。

 とても重い空気が流れているように感じました。虫除けスプレーを持ってくるべきでした。アブに蜂と言った大量の羽虫が、境内に立ち入るのを遮るかのように身体に纏わり付いて来ます。

 鳥居をくぐると、屋根の崩れ落ちた石灯篭等の遺構が、朽ちるままに放置されていました。最奥部にあるはずの社殿は、2001年(平成13年)の雪害によって崩れてしまったそうで、今は石碑しか残っていません。長い歳月の間、この炭鉱で働く人々を見守り続けて来た神様の役割は、もう終わってしまったと言うことなのでしょうか。

苔に侵食された石階段(降りる方向より)
赤黒く変色した鳥居。ここには神様の去った後の廃墟である。
屋根の崩れ落ちた石灯篭。奥には狛犬が待ち構えている。
もし右奥の篝火が灯っていたら?私なら決して近寄らないだろう。
送電線を支えていたパンザマストが今も残されている。

 北海道の自然はあまりにも厳しく、季節が巡り回る度に、歴史の痕跡は少しずつ削り取られて行ってしまいます。近代化産業遺産や博物館のような保存された場所ですら、やがて守り手が、そして訪れる人もいなくなり、大自然の揺り戻しの中に埋もれて行ってしまうのでしょう。

 特に少子高齢化による北海道の田舎の現状は深刻です。10年後には、5年後には、もしかしたら来年には、もう見ることが出来なくなってしまう場所があると思います。例えば、前回のブログで紹介した夕張では、踏切が鳴ることはもうないのです。今から僅か5ヶ月前に失われました。

 だからこそ、私は少しでも早く多くの場所を訪れたいと思っています。そして、日記同然のこのブログからでも、誰かに興味を持ってもらうきっかけになることを信じています。

 北海道と命名されてからこれまでの150年の歴史は、比較的短いことから追いやすく、そして激動の開拓時代の痕跡は興味が尽きないのです。

 次のブログの内容は、幌内炭鉱跡地編に続きます。是非、読んで頂けたらと思います。

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