一時期、宗谷地方で暮らしていたラム肉食べ太郎が、暇潰しに訪れた場所について紹介して行く。
日本最北端の稚内市は、日本海とオホーツク海の両方を同時に見渡せる場所。最も近い都市は札幌市ではなく、直線距離ならサハリン州の州都、ユジノサハリンスクである。
稚内市から40km程南下すると酪農を基幹産業とする、豊富町という場所に出る。ここでは世界でも珍しい、原油を含んだ温泉が湧き出ている。アトピーなどの慢性皮膚疾患への一定の改善効果が認められ、国民温泉保養地となったとよとみ温泉(公式)には、湯治に訪れる人が跡を絶たないという。
温泉街の正面には神社がある。綺麗に手入れされているが、それでも夏場の大自然の生命力に覆われそうになっている。
北海道でも北に位置するこの土地の夏は、驚く程に短く儚い。僅かなこの季節を謳歌するように、生命の輝きが放たれていた。そんな中には、少年の夏休みの思い出を永遠のモノにする宝物も隠されているのだ。
豊富町から日本海側に抜けると、水平線の彼方に利尻富士を拝むことが出来る。位置や季節、時間帯によって見え方は変わる。
利尻富士の麓へは、稚内から出航するフェリーに乗って、利尻島へと渡ることで辿り着ける。
しかし私は、とうとう島へ渡ることがないまま旭川に引っ越すことになってしまった。無人島にイカダで渡ったトム•ソーヤのようにはなれなかったのだ。防波堤の先端でギリギリまで伸ばした指先が私の精一杯だった。
日本海側を更に南下すると、やがて天塩町に辿り着く。稚内から70km程の距離である。その町の海岸沿いに川口遺跡風景林という場所がある。
川口遺跡風景林は、天塩川河口部の近くに位置する砂丘林であり、幅200m、長さ1.5kmの範囲に230基もの遺跡群が発見されたという。これらの遺跡群は、3世紀〜近世(16〜19世紀)もの長い年代に渡って人が住み続けて来た痕跡であるというのだから驚きである。
しかし今は21世紀である。長い歳月の海風に、エコに作られてたであろう遺構はとうの昔に朽ち果て、少なくとも地上の痕跡は塵となり海風に舞ってしまったことだろう。
考古学者はよく痕跡を発見できたものだと感心してしまう。この北国の恐ろしく厳しいであろう環境に、どんな理由で辿り着き、どのようにして長い世代を跨いで住み続けたのか。そしてその血筋は今もなお途絶えることなく受け継がれ続けているのだろうか。是非とも知りたいものである。
大切なのは想像力である。再現された竪穴住居を見て、実は恵まれた環境であったのだろうと思い直すことができた。海沿いに生茂る木々は、往々にして背が低く貧弱な一方で、密度が高いため、自然の防風壁として海風から身を守ってくれたのかも知れない。
潮風は雪を積もらせず、冬でも食料として、海や川から魚や貝などを、大地から木の実や動物などを、年間を通じて豊かに得られたのかも知れない。
山中とは異なり、熊などの大型の危険な動物が集落にやって来ることもなさそうだ。陽の照る時間は比較的長く、日中の活動時間を長く確保できるのも利点となったかも知れない。
仮に遠出して道に迷ったとしても、天塩川さえ見付けられれば、その広くてなだらかな川さえ辿れば、その先の河口に帰る家があるのだ。
想像の先に考察を結び付けて行くことで、真相に近付くことができるかも知れない。
やってみよう。木々は横に枝を広げ、確かに風を遮っていた。
地面に生茂る笹の実は豊富な食料となり、恐らくそれを食べる小動物もいることだろう。
蝉の抜け殻は、この土地の地面が柔らかく、すなわち肥沃であることの指標となるのではあるまいか。
砂丘林は海の方向に向かって登り坂となり、抜けた先から、砂丘林を平らな絨毯のように見渡すことができた。そして海は浅く穏やかで、天塩町の名産シジミの生息地となっている。
私は考察した通り、確かに恵まれた土地であったと結論付けた。
考古学とは、見付けた痕跡から、このような想像と考察に、更に科学的根拠を結び付けて行くものなのかも知れない。
なお、今回の私の考察は「ごっこ遊び」のため、エビデンスは想像の範囲を出ていない。当然ながら添付する参考文献すらない。だけど、大人はこうやって「知ったように振る舞ってみて遊ぶ」のである。
さて、最後の写真である。いつ置かれのかは分からないが、私が見付けた唯一の地上に残った古い人生物語の痕跡である。